Creator's Story 村田蓮爾

いま幅広い世界で活躍する新しい表現者たち。その創作の原点から、いかにして現在の個性を手に入れたかを探るインタビューシリーズ。今回はそのデフォルメとリアルを両立させた美麗な作風で、イラストレーションの世界に革命を起こした村田蓮爾さんの登場です。25年以上に渡って第一線で作品を発表し、現在も世界規模で活躍する村田さんの創作姿勢をじっくり訊かせてもらいました。

(取材:中山賢司・中村公彦)

プロへの道のり

村田さんが絵を描くようになったきっかけはどんなことでしたか?

子供の頃、電車や車を描くのが上手い親戚のお兄ちゃんがいて、教えてもらいながら絵を描き始めました。といっても、描いていたのは乗り物ばかりで、中学生の頃まで人はたまに描くぐらいでした。本格的にコミックイラストを描き始めたのは大学に入ってからです。美術系の高校でデッサンやクロッキーをやって面取りの仕方を覚えたり、色彩構成を習ったりして基礎は学んでいたんですが、『漫画ホットミルク』(白夜書房)の読者コーナーに色々な人が気合の入った一枚絵を投稿していて、すごく盛り上がっていたので「腕試しをしてみよう!」と思ったんですね。『漫画ホットミルク』は、掲載した絵にコメントを付けてくれるし、希望すれば送ったはがきを返送してくれて、しかも編集長さんが直筆でメッセージを添えてくれたりで対応が手厚かったんです。プロの編集者から言葉をもらえるのはやっぱり嬉しかったですね。

いつ頃、プロのイラストレーターになろうと思われましたか?

クラシックな車が大好きなので、カーデザイナーになりたくて、芸術系大学のインダストリアルデザイン科で家電や大型工業製品のデザインを勉強していました。でも、90年代頃の車は直線的なデザインがほとんどで、僕の好きな1920~1930年代のような曲線的なデザインに挑戦するのは難しそうだと感じたので、大学を途中で辞めて、興味があるコミックイラストを仕事にできないかと思うようになったんです。

思い切った決断ですね。進路を変えてから、実際にイラストを仕事にするまでにはどんな経緯があったのでしょうか?

漫画が好きだったので、まず漫画家になろうかと考えました。当時は、イラスト単体で食べていくならそれくらいしか選択肢がない時代でしたから。でも、Gペンに慣れないし、漫画を専門に描き続けるのも僕には無理だろうなと。そんな時、世間で格闘ゲームが流行り始めて、ゲーム業界でコミックイラストの需要が増えたんです。それで、友人が勤めていたゲームソフトメーカーのATLUSで仕事を手伝うようになりました。ゲームが好きというよりも、絵を描く場所があったからという気持ちからでしたね。最初はゲームのグラフィックだったり、ポスターやゲーム雑誌用の版権イラストを描いてました。1993年に『豪血寺一族』でキャラクターイラストを描いた後に正式に入社して、その翌年『豪血寺一族2』のキャラデザとイラストを担当しました。会社の仕事とは別に、『漫画ホットミルク』の増刊号だった『アリスの城』で描いた「水たまりははしゃぐ。」という短い漫画が、個人としてのプロデビュー作になりました。

代表的な仕事の一つである『快楽天』の表紙と巻末コラムを担当するようになった頃のことを教えてください。

会社に勤めてから同人誌を作り始めて、それを見たワニマガジン社の山崎さん(現・同社社長)から連絡をもらったのがきっかけです。まず『COMIC RIZING(コミックライジン)』という雑誌で短い漫画を描いたんですが、載った号で休刊してしまって「仕事が来たら終わったな」(笑)って思っていたら、そのあと山崎さんが『快楽天』を立ち上げることになって僕に表紙の話が来ました。2年ぐらいは会社と個人の仕事を並行してやっていて、他に『ウルトラジャンプ』の表紙もやってましたね。でも、段々スケジュールがキツくなって、会社の仕事に支障が出るようになったのでフリーになりました。

ちなみに、ペンネームにはどのような思いが込められているのでしょうか。

そんなに深い意味はなくてただの思いつきなんですが、僕は花の中で睡蓮が一番好きなので、「蓮」の字を入れたいと思ったんです。「爾」は辞書でたまたま見つけて、左右対称で格好良いなと思ったので、2つをつなげて「蓮爾」にしました。姓は本名そのままです。

村田さん流ものづくり術

 村田さんが描き続けた『快楽天』の表紙は、成人漫画誌らしからぬスタイリッシュさが印象的でしたが、当時はどんなコンセプトで描いていたのでしょうか?

お題は「女の子なら何でもOK」でとにかく自由でしたね。僕は、他のエロ漫画誌のような肌色多い系の直接的表現が好きじゃなかったので、女の子の可愛さ、今で言う「萌え」で勝負したいと考えていました。でも、そればかりだとネタ切れしたり、自分で飽きてしまうので、その時々で興味があったこと、例えば服や帽子のようなファションに凝ったり、色々なメカやガジェットを付けさせたり、家具を取り入れてみたり、その時に気になった配色を絵の中に入れたりしてましたね。男キャラを出した時は、流石に「これはちょっと…」って編集さんに言われましたけど(笑)。

キャラクターからリアリティを強く感じるのですが、描く時に何か特別な工夫をしているのでしょうか。

キャラの設定は必ず考えます。自分で言うのも恥ずかしいですけど、僕は「設定厨」なので(笑)。例えば「活発な女の子」だったら「どう活発なのか?」考えます。方向性によって笑い方だったり、着ている服や着崩し方も変わってきます。もちろん、より派手に人の目を惹くデザインをする方法、例えばでっかい武器を持った戦う女の子などは、実際にそれを持てるかという問題はありますけど、やり方としてありでしょうね。ただ、僕は細かい設定を積み重ねていく方が好きです。

実際に絵を描く時の流れやアイデアの出し方について教えてください。

下絵の段階で形とかイメージを決め込んで描くタイプだと思います。例えば、何か操作パネルのようなものを描くとしたら、そのツマミの形状や配置がいかに「理」に適っているかを予め考えておかないと、どうしても気持ちが悪いんです。形が整ったら、ペンを入れて色に入る感じです。アイデアは特に書き留めてはいないんですが、心にネタストック的なものがあるので、そこから拾うことが多いですね。何か新しい発見があったり、気付いたことがあったら、積極的に絵の中に取り入れるようにしています。最近、出かける時はいつもカメラを持ち歩いているんですが、写真はネタ出しの時にとても助かります。

仕事を続けていると調子の波があると思いますが、普段どのように気持ちのコントロールをしていますか。

絵を描くのは、僕にとって呼吸と同じように自然な行動なので、特別に何か意識してするということはないです。仕事でも同人でも、自分の中にストックしているものを脳が無意識のうちにセレクトして、手が勝手に動いているという感覚ですね。もちろん描けない時もあります。そういう時は、自分の中の頭の感覚と手の感覚がズレていると思うので、リセットするために睡眠を取って脳を休ませるようにしています。もっとも、〆切前で時間がない時はなかなか寝れないですけど(笑)。あとは散歩や料理、掃除ですね。最近は、ちょっとした旅行のような感覚でスーパーに買い物に行くのが好きです。

村田さんの持ちキャラとも言える〈和生〉と〈竹緒〉とはどんな存在なのでしょうか。

元々は漫画用のキャラで、兄妹という設定です。最初にデザインを考えていた時、自分の中で核になる形にしたかったんですね。女の子は昔からあるおかっぱ頭で前髪だけすごくショートにすれば、パっと見で〈竹緒〉って分かるし、いつ描いてもあまり時代性を感じないだろうと。〈和生〉も、色々な遊び方ができる長髪ではなく、短髪にすればずっと古びないかなと。30年近く、2人を事あるごとに描いてるんですけど、実は自分の絵が昔と比べてどれぐらい変化したかを計る「ものさし」になると思って作ったんです。絵は描いていくうちにどんどん変化するものですが、いつの間にか奇形化することもあるので、その予防策という意味合いもありますね。

同人歴も30年近くになりますが、活動を始めた時のことを聞かせてください。

高校の頃に同人に詳しい友人がいて、イベントに連れて行ってもらったり、彼が出した本にゲストで描くうちに同人誌の作り方を覚えて、自分でも本を作ってみたいと思うようになりました。サークルを始めたのは会社で働き始めてからで、コミケに申し込んで当選したのに本を出せないという苦い経験を何度かしました。多分、自分でハードルを上げすぎていたんでしょうね。「見応えのある本にしないといけない!」とあれこれ考えているうちに、気が付いたら〆切を過ぎていたんです。作り方を見直して、どうにか出したのが『楽天』(1992年)という本でした。でも、一回作ったらもっとやりたいことが出てきて、他の人の本を見てまた刺激を受けてどんどんハマっていった感じです。

同人とはどんな場所だと思いますか?

自己プロデュースの場ですね。自分がスポンサーで、プロデューサーで、クリエイターでもあり、最終的に売るのも自分です。お金をかければ変なものもできるけれど、売れなくて不利益を被るのも自分なので納得できますよね。同人は最初から最後まで自己完結するのが気持ちいいんです。

これまで、本以外にもプラスチックや金属、ゴムや皮革といった独自の素材を使った作品を作ってきました。それらはどのようにして実現できたのでしょうか?

大阪に住んでいた頃、自宅の近くにたまたまホープツーワンという印刷所があって、直接入稿する時に見本帳を見せてもらってすごくためになったんです。本を色々と作っているうちに、何ができて何ができないのか、印刷所はどんなことが得意なのかが分かってきて、次第に紙以外の素材も使いたくなったので相談してみたら、実現するための方法を一緒に考えてくれました。まず同人で色々実験しながら、紙以外の素材を使うにはどういうルートで業者に依頼したらいいのか勉強しましたね。それぞれ業界があって、その中での常識を知る必要がありましたけど、段々リクエストのさじ加減が分かるようになって、その経験が自分の絵にも反映されるようになりました。

教員経験から得たもの

 2013年に京都精華大学の教員になられた時は驚いたのですが、どのような経緯があったのでしょうか?

それまで専門学校などから講師の依頼があっても大体お断りしていたんですが、精華大だけはしつこいぐらい熱心だったので、直接会ってお断りしようと思って職員の方に家に来てもらったんです。その時、ずっとメールでやり取りしていた方ともう1人、付き添いの方が「竹宮です」と自己紹介したんですよ。精華大で僕の知っている竹宮は竹宮惠子さんしかいなくて、その方から直接「ぜひ」と頼まれたら断れる人いるんですかって感じでしたね(笑)。

東京で仕事をしながらの教員生活はご苦労が多かったのではないでしょうか。

スケジュール的に厳しいので授業を隔週にしてもらって、年間コマ数の不足分は夏と冬の休みの間に集中講義という形で調整してもらいました。最初の1~2年は大学が用意したホテルに前泊して、翌日授業をして東京に帰るという流れだったんですが、3年目の終盤に段々時間がなくなってきて、前日まで家で仕事をしていたら、「ホテルに泊まっていないようですがどうなってるんですか!」って30年ぶりに職員室に呼び出されて怒られました(苦笑)。それ以降は日帰りです。最初の頃は「京都遠いなあ…」と思ってすごく面倒臭かったんですが、5年もやるとすっかり慣れて、行く前にしっかり仕事を片付けられるようになりましたね。

授業ではどんなことを学生に教えていたのでしょうか?

1年生の担当だったので、絵を描く基礎体力を付けてもらうために、課題を出して人体のデッサンやクロッキーと、個別の講評を繰り返しやってました。練習なので学生にとってはつまらないだろうし、僕も本当は楽しく絵を描いて向上させたかったので、やり方には色々と悩みましたね。教えても全然変わらない子もいれば、半年くらいですごく上達した子や途中でプロになった子もいて、18~20歳くらいの子の持つポテンシャルを感じました。

教員を5年間経験して、ご自身にフィードバックされたことはありましたか?

普段、全く話さないような若い子たちが何を考えているのか、どんな作品が流行っているのか、どういう見方でものを見ているのかを知って、教えられることが沢山あったと思います。彼らには彼らなりの言語や共通認識や世界観があって、その中で新しい文化が生まれているんですよね。僕とは数世代違いますけど、「面白そうだな。僕もちょっとやってみたい!」って思わせる力がありました。丸々は無理ですけど、自分の中にちょっとずつ取り入れている気がします。

これからプロを目指す人にどんなアドバイスをしますか?

まずは絵を描く基礎体力を付けることが大切だと思います。「どうしたら絵が上手くなりますか?」と良く質問されるんですけど、それにはやっぱり線の量ですね。とにかく描くしかないです。あと、色々なものを描けたり、幾つかの絵柄を作った方がいいでしょうね。そのための練習で一番いいのは人体デッサンです。そこである程度の正確性を持っていたら、いくらでも応用ができますから。作品をどんどん人に見てもらうのもすごく大事です。ピクシブだったりツイッターは、時間や場所に関係なく、いつでも自分の絵を全世界の人に気軽に見てもらえるし、その中で競争も生まれているので便利ですよね。

村田さんの今、そしてこれから

コミックイラスト業界の今をどのように捉えていますか?

僕が20代だった頃に比べると、仕事のフィールドがすごく広がりましたよね。人が増えた分、競争のレベルが上がって健全だと思います。今は上手い人たちの絵が毎日のようにネットにアップされたり、トレンドが目まぐるしく移り変わったりして、消費のスピードが以前よりも速くなりましたね。だから、プロになっても生き残りが大変だし、名前や作風が認知された後、どうやって新しい驚きを出すのかという問題もあって、面白いけれど難しさもある時代だと思います。

プロとして成功できた要因は何だったとご自身で思いますか?

自分ではごく自然にやっているんですが、他の人の目からだとこだわっている人に見えるらしいんです。絵がすごく理屈っぽいとか、モノを描いたり作る時も「理」がないといけない的な感じですね。そういう無意識的な「こだわり」が、他の人たちとの違いになったのかなと思います。絵は自由だから必須ではないですけど、モノだったり、形や色に自分なりの「こだわり」を見つけるのは大切ですね。

最後に、ご自身の今と未来について教えてください。

ツールをコピックからデジタルにしてから、使える色が増えたり微妙なニュアンスが出せるようになって表現の幅が広がった気がしたんです。実際、描いている時は楽しいんですけど、完成した絵を何日か置いてみると、「やりすぎてるなあ」と思うことがあって、どうすれば自分が気持ちいい所で止まれるかの境目が分からなくて、ここ数年、方向性で悩んでいる気がします。「より精密、より正確にものを捉えなきゃいけない」という思いに囚われすぎて、自分で自分の絵の線を縛っちゃっているのかもしれません。ただ、絵は自分の一部だし、まだまだやりたいことが残っているので、やれることをやりながら、日々上手くなるための努力をしていきたいです。同人も続けたいですね。もし、仕事がなくなって完全にヒマな状態ができたら、その時には学生の頃のように好きな絵が一杯描けるんじゃないでしょうか。それがポピュラリティがあるものになるかどうかは別ですけどね。最近、同人誌の表紙は何の制約もなく描いているんですけど、これからは判型を気にせずに、構図を生かして自分の好きな形で絵を描いていくような気がします。おっちゃんばっかり描くのなんかもいいですね(笑)。

取材:2018年9月16日

最新画集『futurelog -standard edition-』(ワニマガジン社)

村田蓮爾プロフィール

イラストレーター・デザイナー。1968年、大阪府出身。ゲーム会社・ATLUS在籍時、格闘ゲーム『豪血寺一族』シリーズのイラスト・キャラクターデザインで注目を集める。並行して個人サークル「PASTA'S ESTAB.」の活動を開始。1994年より『快楽天』『ウルトラジャンプ』の表紙を担当し、デフォルメとリアルを両立させつつ、独自のファッションやガジェットを組み入れたイラストでファンを魅了する。
1997年に初画集『LIKE A BALANCE LIFE』、1999年に企画責任編集フルカラーコミック誌『FLAT』(いずれもワニマガジン社)を発表。既存の型に因われない装丁で高い評価を得る。イラストの立体化企画(ファッション、フィギュア、自転車、ソファなど)や、アニメ『青の6号』『LAST EXILE』のキャラクターデザイン、京都精華大学マンガ学部(キャラクターデザインコース)教員など、コミックイラスト以外のフィールドにも進出。アメリカやシンガポール、中国など海外のアニメ・コミックコンベンションにも積極的に参加し、世界規模で活躍を続けている。

●ウェブサイト:https://www.pseweb.com/

●ツイッター:https://twitter.com/Murata_Range

●サークル名「PASTA'S ESTAB.」