COMITIA117 ごあいさつ

「創作にプロもアマもない」(作画グループ代表 ばばよしあき)

まず訃報から始めなければなりません。「作画グループ」代表のばばよしあきさんが6月21日に心不全で亡くなりました(享年68歳)。
作画グループは1962年に発足した、日本でもっとも古いマンガ研究会とされ、コミックマーケット(1975年~)などの同人誌即売会の歴史が始まる前から活動する、今では数少ない会員制のグループでした。
記録によれば、60年代当時の全国で活動する同人グループは百数十あまり。まだ同人誌は肉筆回覧誌が主流だった時代に、ばばさんたちの1冊目の作品集「ぐるーぷ」は、資金を自腹で用意して一般の印刷所に発注し、オフセット印刷で3千部を発行(1968年)。それをまだ細々と残っていた貸本出版社に直談判して貸本のルートに流す大胆な試みを行いました。当時20歳の若者がこれを実現させたのですから、その行動力に驚かされます。
同会からプロになる作家も多く、代表格は「風雲児たち」のみなもと太郎氏と「超人ロック」の聖悠紀氏。ばばさんを加え「トリオ・ザ・サクガ」の呼び名で親しまれたこの3人が初めて顔を合わせたのは、みなもと(20歳)、ばば(19歳)、聖(18歳)という若き日の頃。信頼できる仲間との切磋琢磨があったからこそ、彼らもプロとして大きく羽ばたいたのでしょう。
とくに聖氏の「超人ロック」(1967年~)は同人誌発のヒットとして大きな注目を集め、商業誌に進出。それをきっかけに作画グループへの入会希望が殺到し、最盛期の会員数は1000人を超えたほどでした。同作はいまだに健在で商業連載が続いており、来年なんと50周年を迎える長寿作品となりました。
作画グループの名前を高めたのは何より合作シリーズでしょう。監督・脚本は勿論、各登場人物を20数名のメンバーに割り振って分担。絵柄も少女マンガからギャグ調まで入り乱れながら、きちんと一本の作品として読める長編合作を何本も完成させ、『週刊少年マガジン』や『週刊少女コミック』などの商業誌で発表しました。これは大人数のグループだからこそ出来たチャレンジであり、「作画グループ」名義の作品として、商業作品に伍して遜色の無いクオリティを見せた彼らの面目躍如でした。
さらにはメンバーによる作品集『GROUP』を、地方・小出版流通センターという取次ルートを通して、全国の書店でも注文できるようにするなど、同人誌の既成概念に囚われない様々な活動を行いました。
この当時の作画グループは、まさに同人誌の代名詞と言ってもよく、同時に独立系の小出版社のような特異な立ち位置にあったと思います。
それでも90年代に入り、コミックマーケットなどの同人誌即売会が全国に普及・定着する頃、作画グループはゆるやかに縮小に向かいます。メインの描き手たちも商業活動が忙しくなり、作品集の刊行ペースは落ちてゆきました。
それは個人で手軽に同人誌が作れるようになったり、WEBでの発表も可能となり、大所帯のグループに所属せずとも、個人の描き手がダイレクトに読者と繋がれる時代が来たからでしょうか。
2010年を最後に作品集の刊行は止まり、定期的な会員の集会は続きましたが、創始者であり一貫して代表を務めたばばさんの逝去をもって、作画グループは解散となりました。
思い起こすコミティアとの関わりは、98年2月にコミティア43の会場で「作画グループ」原画展を開催させてもらったこと。その時の打合せの中で、ばばさんの「創作にプロもアマもない」という言葉が強く印象に残っています。この姿勢こそが作画グループの真髄であり、長年続けてきた創作同人としての矜持でしょう。未だコミティアの方向性を模索していた当時の私自身にとっても、大きな指針となる言葉でした。
あらためて彼らが活動を開始した60~70年代の資料を読んでいると。この頃のアマチュアのマンガ描きたちがまだ見ぬ仲間を求める、激しく切実な「渇き」のような欲求を強く感じます、往時はいまより遥かにマンガ読者は少なく、描く人はさらに少なく。マンガを描き続けるには、プロになって商業誌に載るしか選択肢はありませんでした。同人誌とはそんな彼らの小さな希望の「種」のようなものでした。
けれどいまその「種」は大きく育ち、多くの描き手が自由に作品を発表し、さらに多くの読者と交流できる場が生まれています。ただ、そこに至るまでに、先人たちの膨大な試行錯誤と努力の積み重ねがあったことはけして忘れずにいたいと思います。
マンガ同人誌の黎明期に、まさに「道を切り開いた」偉大な先達でした。謹んでご冥福をお祈りします。
最後になりましたが、本日は3463のサークル・個人の方が参加しています。
あの時代の彼らが何を願い、どこまで行こうと夢見たのか、そしてその願いは叶えられたのか? すでに本人の口から聞くことは出来ないけれど、今の私たちが出来るのは、彼らが耕した豊かなマンガの土壌を思い切り享受し、さらに大きく開拓し、また次の世代に渡してゆくことでしょう。そのためにもまず眼の前の作品と真摯に向き合うこと。それを彼の人は教えてくれたように思います。

2016年8月21日 コミティア実行委員会代表 中村公彦