プロフェッショナルな人 みなもと太郎

みなもと太郎先生のご訃報に接し、心から哀悼の意を表します。コミティアではこれまで様々な企画で先生のご協力をいただきました。ついては20年余り前に初めてティアズマガジンに登場していただいた、Vol.49(1999年8月29日発行)のインタビューを、ご遺族の了承をいただきWEBにて再録いたします。なお、記事中の時制その他の表記については、基本的に掲載時のままとします。

(コミティア実行委員会代表 中村公彦)

大河歴史ロマン「風雲児たち」の作者、みなもと太郎先生をCOMITIA48の後夜合宿にお迎えしての公開インタビュー。大ベテランの先生の知識はまさに漫画界の生き字引。多くのギャラリーからの質問に、作風そのままにユーモアを交え、時に超過激に語られる先生の漫画論、漫画家論はまさに「金の言葉」でありました。

インタビュー:坂田文彦(新潟コミティア代表)/大黒真希(前ティアズマガジン編集長)

※本記事中のカットはすべて、みなもと太郎「風雲児たち」より

「風雲児たち」は全100巻予定?

「風雲児たち」はここに積んである通り全30巻……。

だからその全30巻というのが誤解を招くんでね。営業上30巻の方が出しやすいというから上げたんで、私は完結とはまったく思っておりません。「雲竜奔馬」は「風雲児たち」の別の切り口の連載ですから、「風雲児たち」の本流は機会があればいつでも続行できる状態ですよ。

元々は何巻の予定だったんですか?

元々は10数冊です(一同笑)。連載開始するときには、関ヶ原を(連載)2回か3回分、あとはまあ3巻くらいあれば江戸時代は描ける。その後、幕末を10巻くらいで描けばすげえ大長編ができるじゃないかということで始まったから、向こう(編集部)が怒るのは無理はないです。まさか関ヶ原で1巻かかるとは思わなかったし、学生の頃の記憶では林子平の後、すぐペリーが来てたから、そんなもんかと思って描き始めて、調べ始めると、次から次へと(笑)。それでも17巻からは走りましたから、本来ならここ(30巻)までが40冊ですよね。そうするとあと60冊。全100巻。生きてる間には無理じゃねえかな(爆笑)。

17巻から爆走しましたが、その過程というのはファンの側から見れば非常に…。

つまらない?

うーん(笑)、と言うよりは是非そこをもっと深く読みたい。

今となっては難しいですねえ。

話をぐっと戻しまして、「風雲児たち」を描くに至ったきっかけを話していただけますか?

はい。やっぱり描くときはその雑誌に合わせた作品を描くべきと思って。『コミックトム』、当時は『少年ワールド』か(※)。すでに横山光輝先生が「水滸伝」から「三国志」をやってた。手塚治虫先生の「ブッダ」も始まってた。大河ドラマの中国があって、インドがあって、何で日本がないんだと。それからテレビでどっかの大学教授が「三国志」を絶賛していた。何しろ10巻くらいまで出てるのに諸葛孔明がまだ出て来ないのがすごいと言うから、「出てこなけりゃすごいのかよ」と(笑)。で、その教授がさらに「日本みたいな小さな国では大河ドラマはない」と言ったんだ。その台詞でムカムカした。

その台詞が執筆のエネルギーになっていると。

もう100%そうです。誰かが何か言ってそれに対して「なにっ」と思うと、それが一番描くきっかけになるのは、あたしの悪いくせです。昔『なかよし』で「どろぼうちゃん」という漫画を丸5年描いたことがありまして、「このキャラクターで描いてくれ」と『小学5年生』が言ってきたときに、何を描こうか随分悩んだんですけども、担当者が「編集長が『なかよしでは泥棒だから、まさか警官にはすまい』と言ってました」というから、「では、警官にします」と(笑)。大体そういうのが描く時の原点になるという、悪いくせがあります。

「コミックトム」「少年ワールド」…潮出版の漫画雑誌。「希望の友」から数度の改題を経て、現在の誌名は「トムプラス」。

司馬遼太郎の影響

先生の作品を拝見してますと、やはり司馬遼太郎(※)が見えてくる部分があるんですけども。

古い古い話、白黒テレビの時代ですが、最初は作画グループ代表の馬場よしあき(※)が、司馬遼太郎原作の「新選組血風録」を「これ面白いぜえ」と言うから見ていたんです。その前に、学生時代の友達のところへ行くと「竜馬がゆく」を自分の本棚に置いてる奴が何人かいて。どいつもこいつも「竜馬」読んでるなと。じゃあ読まないでおこう、と(爆笑)。そう思っていたところに、同じ頃、あたしが30年間マンガ家やってきた中で一番尊敬できる編集者がいて、その人が司馬遼太郎を読んで読んで、「花神」と「峠」の話をね、酒飲みながら朝まで延々としてくれるんです。で、「そんなに面白いのかな」と思って「新選組血風録」と「燃えよ剣」を読んでみたら面白かった、「竜馬がゆく」も面白い、「花神」「峠」「世に棲む日日」も…と、結局まあ全部読むわけだけれど、じゃあ幕末の志士で誰が偉いんだ?と考えるわけです。

はいはいはい(笑)。

「世に棲む日日」を読むと吉田松陰と高杉晋作さえいれば他の奴はいらないみたいだし、「花神」を見れば大村益次郎さえいれば明治維新は出来ちゃうみたいだし、「竜馬」では竜馬一人がいればもういいみたいだし(笑)。一体誰がホントは主役なんだと。しかもほら、結局どれにだって新撰組は出てくるし、池田屋は出てくるし、ペリーは来るし。同じことで原稿料とってるじゃねえか、それはいかんじゃないかと(笑)。登場人物たちを全部まとめて、よーいドンでやるのが本当であろうと思って「風雲児たち」で描いてみたら、一人一人描くのが楽だということがこの20数年でわかりました(笑)。
最初は勉強するのに、人物ごとに帯状の年表を作って並べて、「ああ、あの人物とこの人物がこの事件で出会ってる。次はこの時点でつながってる」ということをやってね。あたしは「風雲児たち」を描く前には日本地図の中に県名が当てはめられない人間でしたから。

ほおー。

連載を始めたころに会ったファンの人がね、「僕は福島県の出身なんです」と言うから、「あ、福島と会津は近いんですか?」(※)と聞いたら、その人の目が点になってね。話題がすーっと別の方向へ(爆笑)。

司馬遼太郎…小説家。大阪出身。1960年「梟の城」で直木賞受賞。以後「司馬史観」と呼ばれる自在で明晰な歴史の見方で絶大な人気を集める。「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞。
馬場よしあき…作画グループは25年の歴史を持つ漫画グループで、馬場氏はその代表。みなもと先生はごく初期からの会員である。
「福島と会津は近い」…会津藩はのちの福島県である。

キャラの描き分けの難しさ

複数の主人公が、同じ巻の中に入れ替わり立ち替わり登場しますよね。これらを読者に上手に読ませるにはかなりのテクニック的な難しさがあると思うんですが。

どうかなあ。こちらとしては出てくるから登場させるだけで。ただ、新しくキャラクターを登場させるときには名前を覚えさせるためにどうするかは苦労しますよ。ラックスマン(※)なんかわざと間違えて間違えて間違えて…あれだけしつこくやるとラックスマンだなとわかる。そういうことは考えました。

後半からそれまでの記号化されたキャラクターから、どちらかというとリアルな描写に近いものになっていますね。

というのは、だんだん後の時代になると写真が出てくるでしょう。その意味では、だんだんやりにくくなっています。

一同:ああ。

だから、かつてのみなもとキャラと非常にリアルなキャラクターとが、今後は非常に融合した形で画面に登場してくると。その共存する難しさはありますか?

それは難しくない。あたしは劇画と3等身をミックスした「ホモホモ7」(※)で漫画界に認められた人間ですから。何だっていいんです。丸でも三角でも。

そう言われましても(笑)。描き分けをものすごく上手くなされていますよね。単純な線なのに100人200人を描き分けて、なおかつ一人の人間の赤ん坊のときから老人になるまで。一人一人のキャラクターが、明確に性格を持っていて、こいつはこういう考え方をする奴だと、ダイレクトに痛いほど伝わってくるんです。

ありがとうございます。その辺は、描いてみてあたし自身も「へえー」とは思いました。だってこれ以外にはあたしは短いギャグ漫画中心に描いてたんで、自分が描き分けできるかどうか全くわからなかったんです。
もし自分に何かあるとしたら、子供の頃から漫画が好きで、何でもかんでも読んだせいでしょう。大人漫画でも外国漫画でも、昭和20年代の「文藝春秋漫画読本」(※)などは世界中のいろんな漫画を見せてくれていた時代だから。だからあの頃に子供向けの漫画しか読まないような読み方してたら、ひょっとしたら違っていたかも。でも基本はやっぱり赤塚不二夫。抜けられないね。やっぱり偉いわ、あの人は。

ラックスマン…日本から帝制口シアへの漂流民・大黒屋光太夫を助けて、日本への帰国を尽力する。
「ホモホモ7」…みなもと先生の出世作。主人公ホモホモ7と女だけの悪の組織「レスレスブロック」との対決をギャグ調と劇画調で描いたハードボイルドギャグ漫画。『少年マガジン』掲載。
文藝春秋漫画読本…戦後大人向けの漫画雑誌がなかった時代に雑誌『文藝春秋』が増刊号として漫画を特集した。戦前戦後の世界の漫画が紹介され好評を博す。後に月刊化。

長編を描く面白さ

「風雲児たち」という大長編を描かれていく過程で、ご自分の中での変化というのはありましたか?

正しい答えなのかどうかわからないけれど、司馬遼太郎の戦国時代の作品を読んでも、そんなにあたしは感激はしなかった。こっちが勝ってこっちが負けて、こういう作戦をとってというのは、ヤクザ世界の抗争とやっとることは同じだ。だから単に強いか弱いかで話を作ることには全く興味はありませんでした。「風雲児たち」の途中で水戸黄門が、悪人と善人を分けるには天皇の味方をするかしないかだという、とんでもない考え方をしていますが、それが「とんでもない」としたら、じゃあ本当はどういう考え方をすればいいのかと思ったときに、民衆の味方に立てるかどうかで分けていこうと考えて、「風雲児たち」は変わったかも知れません。それまでは確かに戦国絵巻だし。だから水戸黄門は反面教師にはなってくれた。それから今度は、いかに司馬遼太郎から抜けるか。司馬遼太郎にはまると、抜けられなくなるでしょう。武田○矢じゃないけども(笑)。

「司馬史観」という言葉がありまして、読者はそれに流されがちなんですけども、「風雲児たち」のすごいところ、感動しちゃうところは、司馬史観ではない、もう一つの「みなもと史観」があるという。

それほどお褒めの言葉をもらえることをやっているとは思いませんけれども。ただ、とにかく悪あがきはしました。司馬遼太郎と同じ視点じゃいつまでたっても駄目だろうと思ったんで、司馬遼太郎以外の人の作品はたくさん読むようにしました。立命館の教授の奈良本辰也であるとか、海音寺潮五郎(※)であるとか、その他、大衆向けの人とか、いろんなのをたくさん読みました。
海音寺潮五郎が偉かったと思うのは、私は漫画で「レ・ミゼラブル」と「モンテクリスト伯」を描いて、両方とも原作を読みました。子供の時読んだ限りにおいては「モンテクリスト伯」も「レ・ミゼラブル」もどっちも同じようなものだったのだけれど、漫画に描くにいたって完訳を読んだらレベルが全然違いますよ、奥行きも、深さも。その違いを指摘している文章に出会ったのは、海音寺潮五郎ただ一人です。「『レ・ミゼラブル』の評価が日本はあまりに低い、それを『モンテクリスト伯』レベルの西洋講談の一つだと思っているうちは、日本人はいつまでたっても馬鹿だ」と。「モンテクリスト伯」だってけっして悪いものではないけど。自分で「レ・ミゼラブル」描いてみて、そりゃそうだと。で、海音寺潮五郎さんの言うことは信用しようと。ははあーっと思ったんだけれども。
で、海音寺さんは鹿児島の人で、もちろん西郷さんはひいきですけど。薩摩の人でありながら、勝海舟(※)をきちんと評価してるのに驚きまして。どう評価してるのかと思ったら「レ・ミゼラブル」のときと同じように「勝海舟の偉大さを日本人はわかっていない。それがわからないうちは日本人は二流だ」と。勝海舟のことを悪く言う人は多いんですよ、裏切り者だとか、ホラ吹きだとか。だけどさっきの「民衆を守れるかどうか」という考え方を出来たのは勝海舟一人なんです、確かに。勝海舟は徳川家を裏切ったと言われているけども、明治30何年に至るまでずうーっと徳川慶喜を守りました。プライベートに自分の出来る範囲内で100%、最後まで徳川家に尽くしたのは勝海舟です。そのうえで官軍と一戦やるかというときには江戸市民を守れるか守れないかをまず第一に考えた。そのためには武士の意地であるとか、徳川家300年の歴史であるとかは全部第二義三義にしていった。第一義は江戸を守れるか、市民を守れるか。でもいざとなったら火の海だ、いちかばちかの根性を持ってる。だから勝海舟は偉いなと。民衆の側に立てるかどうかの評価をしていったら、「風雲児たち」の10巻以降は大体、史上の人物を見る私の眼は決まりました。
子供っぽい言い方になるけれど「弱い者の味方」というのは、やっぱり一番正しいんですよ。ただ弱いものが甘えるのは間違ってるというのは一つ入れておかなければいけないけれども。でも権力者と、それに支配されるだけの人間とがいるのであれば、上の者の言うことを聞くよりも、下の者の気持ちを汲んでやるという人間が常に出て来なければウソです。

そういう意味では、歴史というマクロ的なドラマも非常によく描きながら、ミクロ的な人間ドラマの方も、時代は違っても決して大きく変わることはないというスタンスで描かれている。作品としての美しさが風景にあるのに、そのディテールの細やかさが際立つっていう意味で「風雲児たち」は漫画界の中でも非常に希有な作品だと思うのですけれど。

ありがとうございます。これで売れればいうことはない(一同笑)。売れてないから早く終わらせろだのなんだの言われるわけで、売れれば「三国志」と同じで何十年描いて下さって結構ですということになるのに、困ったもんです。だから、解説が多すぎるのがいけない、コマ割りが細かいのもいけない、チャンバラをもっと入れよう、コマを大きく、主役を絞って、となると、今の「雲竜奔馬」になっちゃった。竜馬の思想は最近やっとつかめてきましたがね。

海音寺潮五郎…小説家。鹿児島出身。歴史の深い造詣を活かした代表作は「平将門」「武将列伝」「西郷隆盛」など。
勝海舟…幕末から明治維新に至る動乱期に活躍。江戸城の無血開城に努カ。明治政府で参議兼海軍卿。

漫画家になるには

視点という話で、呉智英さんとの対談で「クローズアップにすると悲劇になって、ロングに引くと喜劇になる」というお話もありましたね。

これは関西喜劇の話ですよ。めちゃくちゃな悲劇みたいな筋書きが、一番喜劇になるんです。関西のお笑いは非常に勉強になってますわね。子供のときから。吉本新喜劇は世界に誇れる。コメディ・フランセーズと張り合えるのは日本で吉本しかないだろうと私は思っています。浅草のお涙喜劇とは違うんですよね。だから「フーテンの寅さん」は好きじゃない。もう少し乾いてる方がいい。チャップリンよりキートンが好き。

映画の話で、手塚治虫さんがよく「漫画を描きたければ漫画を読むな」とおっしゃっていましたが。まあ極論ですが。

あの人の言うことは信用しない方がいい(爆笑)。いや、深読みできなければ信用しない方がいいということです。

みなもと先生の中で、映画というのはやっぱりいい参考になったと。

そりゃあそうでしょう。当たり前でしょう。

意外とその当たり前が、今の若い作家には無いかもしれないと思うんですが。

ああ、今はそうなの? そうかもなあ。俺たちの頃はビデオなかったもんなあ。見逃したらおしまいっていう強迫観念で映画館に行くもんなあ。今は見逃したら巻き戻せるもんなあ。私なんかは昔はいつも映画館にデンスケ(テープレコーダー)持っていって、暗闇で音だけ録ったの沢山。

「王立宇宙軍~オネアミスの翼~」の監督・山賀博之さん(※)が、初監督で「オネアミス」を撮った時に「誰かが『映画が作りたかったらどんな作品でもいいから10回同じものを観ろ』と言っていた。それをそのまんまやってみた」と言っていたんです。観ていくうちに「俺ならここをああする、こうしてみる」というのが見えてくると。

それでアレができたのか。馬場よしあきも漫画で同じこと言ってたな。デビューしたかったら単行本一冊全部トレースしてみろと言ってました。デビューはできると。とにかく学び切るのは大事でしょうね。そういう意味では映画10回観るのも、単行本1冊写すのも、同じことです。
まあ、デビューした後は自分を出せるか出せないかですね。私は漫画がクソ好きで、「ホモホモ7」の前、20歳のときから2年間、漫画で食えるという訳ではなかったけれども仕事は来ました。そのときは注文が来たら「この雑誌には誰それ先生の作品が入ると良くなるな」と考えて、その絵で描こうとしました。で、描いたら採用してくれた。ところが2回3回と続けたら私が降ろされました。その後代わりに私が真似をした先生が描くようになった。馬鹿げたギャグみたいな話だけれども。そのときに、アマチュアとプロの違いっていうのは、要するに「自分にしか描けないものがあるかないか」だなということに初めて気づいた。漫画家になって2年たってから。

BELNE(※):私、昔みなもと先生に「君はデビューは絶対出来ない」って言われたもん(笑)。

言いましたね、うん。根にもってるねえ。あれ以来、そういうことは絶対言わないようにしている(爆笑)。あの後○○○○○に会ったときも「ああ、言わなくてよかったなあ」と思った(笑)。だから自分にとって譲れないものが出来上がるまでは、作家じゃないんだろうな。ただ、漫画が好きなだけなんだろうなと。それでもいいんだけどね。ただ漫画が好きでその世界で食っていくならね、それはそれで楽しいことだし。

山賀博之…アニメ監督。「エヴァンゲリオン」で人気のアニメ製作会社「ガイナックス」設立に関わり、現・代表取締役。「王立宇宙軍~オネアミスの翼~」を初監督する。
BELNE…漫画家。ギャラリーとして参加。みなもと先生とは同じ作画グループの会員。

貸本文化=同人誌!?

先生が漫画を描かれるようになったきっかけは何だったんですか?

私が中学の頃流行っていた手塚治虫に代表される絵は、とにかく上手いんですよ。線をどこから描き始めて、どこで止めているのかわからない。その原因は手塚が参考にしたのが紙に描いた漫画ではなかったから。要するにセル画なんです。セルアニメ。フライシャー(※)とディズニーが手塚治虫の手本で。私には到底真似できない。だから漫画家になりたいという気持ちはあっても、なれないという諦めも半分ありました。
そこに出てきたのが貸本劇画(※)で、これは感覚は新しいけれど下手くその集まりです。園田光慶(※)とかは「アイアン・マッスル」で大友克洋にまで影響を与えた一番美しい線を描く人ですが、デビューしたての頃の下手くそさと言えば、これで原稿料もらえるのかい(笑)というようなもので。同時に「ああ、この絵なら真似が出来る」と思わせてくれた。あの人達はGペンで描いてたから、ここで描き始めたよ、ここでハネてるよ、ここで回しているよ、というのが、わかるんです。

タッチがあったんですね。

そう、だから私にも真似できた。そもそも貸本というのは単行本形式をとっておきながら、人気のあるさいとう・たかをの漫画は巻頭にちょっとだけ載せておいて、あとはメチャ下手な作家で埋めることで体裁をとって、そういう本をたくさん置くことで成り立っていた文化です。だから下手くそがどんどんデビュー出来たわけで、その人たちが発表の場所があるがゆえに、どんどん上手くなっていくのを目の当たりに出来た。貸本は三千冊しか出ていなくても、30人が読まなきゃペイ出来ませんから、何万人の読者がいるわけで。ページが埋まらないときには読者ページをガーンと作ったりして。その読者同士が文通も出来るんです。ながやす巧、松森正(※)なんかがいてね。

それは同人誌即売会の状況とそっくりですね。何のことはない、システムは無意識に受け継がれているんですね。でも、同人誌即売会というのは読者がある程度漫画に入れ込んだ人が来るわけで、そういう意味では閉鎖空間なのでは?

いや、貸本屋も閉鎖空間です。今の雑誌の漫画は学校の教室で友達と話題になるけれど、貸本劇画を読んでいたのはクラスに一人もいなかった。閉鎖空間の方がいいんです。オタクだ、二次コン(二次元コンプレックス)だと言われても、その方がエネルギーは出ます。ここしかないと思えば頑張りますから。トキワ荘も閉鎖空間ですよ。あれはあれでいいんです。私が漫画家になってしばらくして、ある画商の人と話をしてたら、その人が「実は私、昔は漫画を描いていまして、みなもと先生…誰もデビュー出来なかったトキワ荘もあったんですよ」と言われことがありました。

一同:うーん…。

でもね、元を正せば手塚治虫も雑誌にデビューできない人だったんです、あの当時。「ロストワールド」であるとか「火星博士」であるとか、ああいう作品をこれは新しい漫画だと認めて載せるような雑誌はありませんでした。だから大阪の赤本漫画(※)に描くしかなかったわけです。で、手塚治虫が東京に進出して来たときに、猛烈な東京からの拒否反応が起きて「こんな作家が出てくるようでは世も末だ。昔からの漫画家が良心的な作品を出すべきだ」といって、東京の最高級の漫画家が集まって、良心的だといわれる漫画を出して、売れなかった。

負けたわけですね。

負けた。で、その事件があってから、雑誌が手塚治虫を引き受けたわけです。だから常に在野の人達が漫画を変えていくんです。その次の時代も、手塚治虫なら手塚治虫一辺倒で、手塚に似た絵でない漫画は使わない時代になる。雑誌はそこで固まって、新しいものを見る眼は出ません。あのね、雑誌社は次の時代の漫画家を育てることは出来ないんです。

一同:……。

上手い漫画家を使って、捨てるというだけの社会です。使いつぶすだけ。新しくそれを育てるということは、個人レベルでは起きるけれども、一つのジャンルとしては未だかつてやったことはない。だから編集者は、触媒以上のものにはなってほしくない。触媒になりきれる編集者は最高の編集者だと思う。そう言うと馬鹿にしているように受け取られるけれど、決してそんなつもりではない。作家の力を本当に引き出せるのは触媒です。作家はどんどん独裁者になっていく。でもそれは、そうならなきゃ仕方がない。黒澤やキューブリックやアンゲロプロス(※)にならなきゃいけません。その場合他のスタッフは触媒になるべきなんです。とにかく漫画家は読者に伝えることが使命であって、編集がどう思おうと、そんなことは関係ないわけで。だから邪魔をするか、読者のためになるか、どっちかです。

フライシャー…マックス・フライシャー。アニメ作家。代表作「バッタくん街へ行く」「ガリバー旅行記」「スーパーマン」など。初期のアニメ界でディズニーと人気を二分。
貸本劇画…昭和30年代、全国的に普及した貸本屋で流通した漫画雑誌。「劇画」という言葉はここから生まれた。
園田光慶…漫画家。代表作「アイアン・マッスル」「赤き血のイレブン」など。
ながやす巧…漫画家。代表作「愛と誠」(原作・梶原一騎)「沙流羅」(原作・大友克洋)など。最近「アフタヌーン』で「鉄道員(ぽっぽや)」を漫画化し、話題を呼ぶ。
松森正…漫画家。代表作「拳神」など。
赤本漫画…昭和初期に大阪を中心に刊行された漫画単行本のシリーズ。表紙にどぎつい赤を使うものが多かったため「赤本」と呼ばれる。
アンゲロプロス…テオ・アンゲロプロス。映画監督。ギリシャ出身。代表作「旅芸人の記録」「こうのとり、たちずさんで」など。

次の世代の漫画へ向けて

「トキワ荘」がみな世に出られたのは、みんな手塚流の線を描けたから。石ノ森章太郎は自分の人気と照らし合わせながらその中で少しずつ新しい実験をしていったから、生き残ったわけです。そういう手塚亜流しかいない時代に、次の世代の水木しげる、さいとう・たかを、園田光慶とかには雑誌社は一切、目もくれなかった。だから、その人達は今度は貸本屋で一つの文化を築き上げた。雑誌社が採ってくれなかったから貸本文化という時代が約10年続いたわけです。で、白土三平(※)が貸本劇画と手塚漫画の橋渡しをする人だった。あの絵はどっちにもなれたから、手塚亜流しか認められない雑誌の編集者でも理解出来る絵を描けたのは白土三平だけだったから、「狼小僧」であれ、「風の石丸」であれ、雑誌に載れた。それでも本当に描きたい「忍者武芸帳」は貸本に描くしかなかった。
そのうち少年漫画がにっちもさっちもいかない、貸本漫画が次の時代のものになるということに気づいたのは手塚治虫で。だから、あれだけカリカリしたんです。カリカリもしたけども、あれだけ忙しい中で手塚治虫は貸本漫画に手を出すわけですから、まあ、恐ろしいわねえ。で、大手出版社が貸本作家を使うようになったら、これまでの手塚亜流の作家を残らず追い出したわけですわね。世代交代がそれで終わった。終わったのはいいんだけど、そのときに貸本屋が全部つぶれたんで、次は一体どうなるんだと。その恐れで私が描いたのが「お楽しみはこれもなのじゃ」(※)です。

一同:ああ。

私は貸本屋がつぶれた時点で一旦絶望したんですけど、そしたら出てきたのが美少女とコミケ。あの人達は、最も見向きもされないような所からはい上がって来た。だから美少女アニメを私は認めます。当時の自販機エロ本…もう今はないかなあ、アルミホイルが貼ってあって夜中になると中が見えるやつ(笑)。その自動販売機の大股開きのエロ本の中に、新しい絵を描こうとしている人達がいるけどもこれは一体どういう形で出て来れるだろうかと。確かに劇画のエロ漫画とは違うものだけれども、これが果たして次を担うところまで来るかどうかというのは、数年悩みました。それから美少女アニメで「くりいむレモン」が出てレンタル屋に置いてあった4、5本だけ借りてみて、他のはどうとも思わなかったけど「POP♥CHASER」というのはすごかった。

一同:おお。

「これになるぞ!」と思ったら、「プロジェクトA子」が出てきて、「ダーティペア」が出てきた。最近面白かったのはTVアニメの「大運動会」。脚本を書いた人は「風雲児たち」を読んでくれてるのが最近わかってうれしかった(笑)。実はスポコン漫画の数十年の歴史は、たった一本の、黒澤明の「姿三四郎」(※)の亜流しかなかったんですよ、「あしたのジョー」を含めて全部。「大運動会」はそれをちょっとだけ変えたでしょ。そのちょっとが俺はモノスゴク偉いんじゃないかと思う。

で、そういう新旧交代が今は、講談社でいうならば『アフタヌーン』に象徴されますねえ。『少年マガジン』『ヤングマガジン』『モーニング』とは一線を画している。これらの編集部のその上の上司の人とこの前パーティーで会ったら「『アフタヌーン』は漫画家に自由に描かせてけしからん」と怒っていた(笑)。俺があれに口出ししたら10倍は売れてみせると。できるでしょう、スゴイやり手の人ですから。できるけれども、「金田一少年の事件簿」のファンから次の世代の漫画家は育ちません。確かに今「金田一少年」の方が、原作者はこれだけ、描き手はこうと分担総合して作ったら、何百万部見込んだ通りに売れた。でもそれはあるものを組み合わせて売れるようにするのは出来るんだけれども、ないものを作り上げていくのは、もう在野からしか出てこない。ひょっとしたら『アフタヌーン』の方が世界市場を手に入れることが出来るかも知れない。今読めているのはそこら辺までです。これから先はインターネットや何かで別の可能性がでてくるからね、どうなるかわかりませんけども。

そういうのを支えてきた読む側の目は厳しいですね。

読む側! はい。すごいです。だから「民衆は愚にして賢である」ということなんですよ。長いスパンで見たら一番賢いのは民衆なんです。

漫画家にとって読者は民衆ですか。

いや、そんな偉そうなことではないな。あのね、その言葉で思い出したことがあるけれども、漫画家になりたい人がよく言うセリフに「人に感動を与えたいんです」というのがあるけれども、これは自分が上にいて読者を下に見てるんです。これ間違い。自分が感動したことを伝えられるかどうかなんです。人を感動させたいと思うことは傲慢でね、感動はしません。
作家は地球の裏側に住んでいる人と、隣にいる人と、同じ目で見られるかどうかっていうのが勝負でしょうね。そこはやっぱり、創造力というか空想力というか、視野を広げる努力をしないと。(ここにある)缶コーヒーを手にしたときに、工場で働いている人、運ぶ人、お店の人、これ一つのために百人なら百人の手を伝わってきているということがわからないと、核戦争後のSFで平気で缶コーヒーを出します。そうすると嘘っぱちになります。
昔の偉い教育者の言葉に「君の着ているセーターは、地球の裏側の少年が育てた羊のセーターなんだよ」というセリフがあって、これがやっぱり教育として一番正しいだろうなと。

白土三平…1960年代劇画ブームを代表する漫画家。代表作「サスケ」「カムイ伝」「忍者武芸帳」など。
「お楽しみはこれもなのじゃ」…『マンガ少年』(朝日ソノラマ)で連載された漫画エッセイ。和田誠の映画エッセイ「お楽しみはこれからだ」をもじったスタイルで往年の漫画の名作、名場面を語る。1997年、河出書房新社より文庫化。
「姿三四郎」…1943年作品。主演・大河内傳次郎。日本柔道発達史に想をとった、男と男の宿命の果たし合いを描く。

百万人と引き換えられない一万人の読者

インタビューを締めくくる形で、先生にとって「読者」とはどんな存在ですか?

ああ、それは漫画によって違う。「風雲児たち」は同志ですわな。

一同:おお。

他の漫画は一つ一つ違うでしょうね。でも漫画は直接反応が見えないからつらい。舞台じゃないからねえ。ギャグ一つ発しても、それが受けてるのかどうか。だから噺家さんなんかがね、自分を上達させるのはお客だって言うけどね。

だから同人誌出身のプロ作家は、即売会に出るのをなかなかやめないんですね。

ああ。そうでしょう。楽しいもんね。ダイレクトな反応って。

じゃあ手紙とか、ファンレターの向こうに見える読者というのは?

ああそれは、ここにいる皆さんと同意見です。年齢に関係なく小学生でも、わかってくれてる人はわかってくれている。すごい手紙が来ます。ありがたい読者を私は持っていると思います。百万人と引き換えに出来ない一万人。

コミティアに参加している、漫画が好きで描いている人とか、読むのが好きで買いに来ている人とか、その人達に伝えたいことがありましたらお願いします。

さっきの話のように漫画家が感動を与えるのではなく、描き手が自分の感動を伝えるものであるということです。 SFでも漫画でも高みからの科学解説より、自分の夢を伝えるフィクションの方が人の心を動かす。今度日本から2人目の女性宇宙飛行士になる人は、志望理由が「子供の頃、宇宙戦艦ヤマトにはまって」だそうで。「おお、正しかった」という思いはありますよ。そういうもんなんですよ。 (完)

みなもと太郎プロフィール

1947年3月2日生まれ。京都府出身。1967年「りぼん」でデビュー後、1970年『少年マガジン』の連載「ホモホモ7」でギャグ漫画家として注目される。1981年より『コミックトム』誌上で「風雲児たち」を連載。1998年同誌が『トムプラス』に改題されるに従い、内容を一新した「雲竜奔馬」を連載。「作画グループ」の会員でもあり、同会誌『グループ』にて「日本漫画大辞典」も連載中。
※2021.9.4.追記…2001年より『コミック乱』(リイド社)にて、『風雲児たち 幕末編』の連載を再開。2004年第8回「手塚治虫文化賞・特別賞」を受賞。受賞理由は「歴史マンガの新境地開拓とマンガ文化への貢献に対して」とあり、作品だけでなく漫画研究者としての功績も評価された。2010年「風雲児たち 幕末編」で第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。2020年「風雲児たち」で第49回日本漫画家協会賞大賞を受賞。同作を原作にTVドラマ化(2018年)、歌舞伎舞台化(2019年)も行われた。2021年8月7日逝去。享年74歳。


作品紹介/これを知らなきゃ始まらない「風雲児たち」

潮出版 版
「風雲児たち」第1巻
「風雲児たち」の魅力とは、学校の歴史の教科書で暗記させられた人名や年号でしか知らない歴史上の人物たちが、いまの私たちと同じように泣き、笑い、怒り、喜ぶ、豊かな表情とともに「生きた人間」として描かれる感動にある。
それは歴史という大きな歯車が、ほかの何者でもなく、一人一人の小さな人間の力で少しずつ動いていく、という当り前の事実をたしかに感じさせてくれる。この一人一人の人間の営為にこだわっていく視点こそが「みなもと史観」と呼ぶべきものかも知れない。
時は1600年、関ケ原。のちに「天下分け目の合戦」と呼ばれる徳川家康(東軍)と豊臣方(西軍)の石田三成らの戦いから、この長い長い物語は始まる。 東軍の圧倒的勝利に終わったこの決戦で、負けた西軍側に参加した長州、薩摩、土佐の各藩は、その後に成立した徳川幕府からさまざまな弾圧を受けることになる。結果としてこのときの無念が300年ののちに多くの人材を輩出し、彼ら志士たちが幕府を倒し、近代の日本を動かす原動力になってゆく。
徳川幕府は三代将軍家光の時代に鎖国政策をとり、諸外国との国交を断つ。この間、交流があったのは唯一オランダ1国のみ。それも長崎の出島に限られ、庶民との接触は厳しく制限された。蘭学と呼ばれたオランダから入ってくる科学や医学の情報は、当時の知識人たちにとって羨望の的となった。
そうした新しい知識、外の世界を求める者たちは、徳川の彼を守らんとする幕府の圧力に押さえつけられながら内なる力をため込んでゆく。描かれた人物、エピソードの一端を上げるならば、「解体新書」をゼロから翻訳し、蘭学の普及に生涯をかけた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵たち。
エレキテルを発明し、戯作を書き、多彩な分野で活躍した日本史上最大の奇才、平賀源内。

 ロシアへ漂着し、艱難辛苦の末に10年越しで日本へたどりついた大黒屋光太夫。
禁制の日本地図を国外に持ち出して大事件となったシーボルトと愛人おたき。
蛮社の獄をおこした希代の好物、鳥居耀蔵。
TVでおなじみ南町奉行、遠山金四郎。
「海国兵談」を書き、全国を(徒歩で)歩いて、国防を説いた林子平。
…などなど。江戸時代300年をいろどる多士多彩なキャラクターたちが生き生きと見えてくるはずだ。
物語は、本来の舞台であるはずの幕末の手前、若き日の勝海舟、坂本竜馬、西郷隆盛らが描かれ始めたところで、掲載誌の休刊により中断している。いずれの日にか、この日本漫画史にのこる傑作「風雲児たち」がどこかで再開されることを願ってやまない。

(中村公彦 1999年8月記)